第二章 國史に於ける國體の顯現 

一、國史を一貫する精神 
國史の眞義 
國史は、肇國の大精神の一途の展開として今日に及んでゐる不退轉の歴史である。歴史には、時代の變化推移と共にこれを一貫する精神が存する。我が歴史には、肇國の精神が儼然と存してゐて、それが彌々明らかにせられて行くのであるから、國史の發展は即ち肇國の精神の展開であり、永遠の生命の創造發展となつてゐる。


然るに他の國家にあつては、革命や滅亡によつて國家の命脈は斷たれ、建國の精神は中斷消滅し、別の國家の歴史が發生する。それ故、建國の精神が、歴史を一貫して不朽不滅に存續するが如きことはない。從つて他の國家に於て歴史を貫くものを求める場合には、抽象的な理性の一般法則の如きものを立てるより外に道がない。


これ、西洋における歴史觀が國家を超越して論ぜられてゐる所以である。我が國に於ては、肇國の大精神、連綿たる皇統を基とせずしては歴史は理解せられない。北畠親房は、我が皇統の萬邦無比なることを道破して、

大日本は神國なり。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我國のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神國と云ふなり。

と神皇正統記の冒頭に述べてゐる。


國史に於ては維新を見ることが出來るが、革命は絶對になく、肇國の精神は、國史を貫いて連綿として今日に至り、而して更に明日を起す力となつてゐる。それ故我が國に於ては、國史は國體と始終し、國體の自己表現である。


既に述べた伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の修理固成、天照大神の肇國の御精神は、代々繼承せられて歴代天皇の國を統治し給ふ大御心となつてゐる。即ち神勅の御精神は御歴代の詔勅に一貫して拜せられるところであり、國史に顯れてゐる改新或は維新は、この大本に復ることによつてよく正しきを顯すの働であり、而して臣民は常にこの大義に基づいて宏謨を翼贊し奉り、光輝ある國史を成し來つたのである。


大國主神の國土奉獻 
古事記・日本書紀によれば、皇孫が豐葦原の瑞穗の國に降り給ふに先立つて、鹿島・香取の二神を出雲に遣され、大國主ノ神に天照大神の神勅を傳へられたに對し、大國主ノ神は、その御子事代主(ことしろぬし)ノ神と共に、直ちに勅命を奉じて恭順し、國土を奉獻し、政事より遠ざかられたとある。


これ、大業を翼贊し奉つた重大な事例であつて、その際大國主ノ神の誓言には、

僕(あ)が子ども二神の白せるまにまに、僕(あれ)も違はじ。此の葦原の中ツ國は、命(みこと)のまにまに既に獻らむ。唯僕(あ)が住所(すみか)をば、天ツ神の御子の天ツ日繼知ろしめさむ、とだる天(あま)の御巣(みす)なして、底つ石根(いはね)に宮柱ふとしり、高天ノ原に氷木(ひぎ)たかしりて、治めたまはば、僕は百(もも)足(た)らず八十(土囘)手(くまで)に隱りて侍ひなむ。亦僕が子ども百八十神は、八重事代主ノ神、神の御尾前(みをさき)と爲りて仕へ奉らば、違ふ神はあらじ。

と申された。


かくて國土を奉獻せられた大國主ノ神は、大神より壯麗な宮居を造り與へられて優遇せられた。而して大國主ノ神は、今日出雲大社に祀られ、永遠に我が國を護られることとなつた。


我等は、ここに徳川幕府末期の大政奉還及びその後の版籍奉還によつて、源頼朝の創始した幕府が亡び、大政全く朝廷に歸した明治維新の王制復古の大精神の先蹤を見るのである。


神武天皇の天業恢弘 
神武天皇の御東征は、久しきに亙り、幾多の困難と鬪ひ給ひ、皇兄五瀬(いつせ)ノ命を失ひ給ふほどの御悲痛にも屈せられず、天ツ神の御子としての御信念と天業恢弘の御精神とによつて、遂にその大業を達成し給うた。


神代における所傳やそれ以後の國史に徴するに、御歴代のかくの如き限りなき御努力によつてよく萬難を克服し、天業を恢弘し、益々善美なる國家が造られ、我が國體の光輝は彌々増して來るのである。神武天皇が大和橿原の地に都を酋め給ふに當つて、下し給うた詔の中に、

夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に隨ふ。苟も民に利(くぼさ)あらば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。且(また)當に山林(やま)を披(ひらき)拂(はら)ひ、宮室(おほみや)を經營(をさめつく)りて、恭(つゝし)みて寶位(たかみくらゐ)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎭(しづ)むべし。上は則ち乾靈(あまつかみ)の國を授け給ふ徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇(すめ)孫(みま)の正(たゞしき)を養ひ給ひし心(みこゝろ)を弘めむ。然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と爲(せ)むこと、亦可(よ)からずや。

と仰せられ、乾靈授國・皇孫養正の御精神を明らかにし給うてゐる。

かゝる大御心は、既に述べた肇國の事實の中にも、亦神勅の中にも明らかに現れてゐるのであつて、皇孫養正の御心を弘め給ふことは、神武天皇以後御歴代の聖治によつて明らかである。

即ちこれ、皇祖皇宗國を肇め給ふこと宏遠に、徳を樹て給ふこと深厚なる所以である。神武天皇は、かゝる深き大御心と、六合を兼ね八紘を掩ふの大精神を以て御即位遊ばされた。又、天皇の四年春には、詔して、

我が皇祖(みおや)の靈(みたま)や、天(あめ)より降(くだり)鑒(ひか)りて、朕が躬(み)を光(てらし)助けたまへり。今諸の虜(あだども)已に平ぎ、海内(あめのした)無事(しづか)なり。以て天ツ神を郊祀(まつ)りて用(もつ)て大孝を申(の)べたまふ可し。

と宣ひ、靈畤(まつりのには)を鳥見(とみ)の山中に設けて、皇祖天神を祀り、報本反始の誠を致し給うた。

崇神天皇の神祇崇敬 
降つて崇神天皇が天照大神を大和笠縫の邑に祀り給ひ、次いで垂仁天皇が伊勢の五十鈴川の邊に皇大神宮を創始し給うたのは、皇祖を崇敬せられる大御心の現れである。


更に崇神天皇が、四道將軍を遣して敎化を弘め給ひ、又説法の基礎を定めて調役を課し、池溝を開き給うた如きは、皇祖皇宗の御精神を繼承し、愈々天業を紹述恢弘せられたものである。


大化の改新 
大化の改新は、氏族制度の弊害を矯正せんとして、中ノ大兄ノ皇子が孝徳天皇を佐けて行はせられた。この改新に於ては、支那の王道思想を採り、隋唐の制度を參酌せられ、有力なる氏族の人民私有・土地兼併等の弊害、殊に蘇我氏の僭上を除き給うた。


而してこの改新の大精神は、聖徳太子が、憲法十七條に於て君臣の大義を明らかにせられたことに、その近き源を存してゐる。孝徳天皇は、中ノ大兄ノ皇子をして、聖徳太子のこの御精神を政治上・制度上に斷行せしめ給うたのである。


推古天皇の御代に定められた冠位十二階の制度は、氏族專横のときにあつて、天皇中心の大義、一視同仁の大御心を明らかにせられ、何人もすべてその志を遂げて聖業を翼贊し奉るべきことを御示しになつたものである。又憲法十七條に於ては、和の精神を始め、國に二君なく民に兩主なき事を昭示遊ばされ、君民公私の道理を明らかにし給うてゐる。


この君臣の大義、一視同仁の御精神の大化の改新に於て現れたものを見るに、中ノ大兄ノ皇子の奉答文には「天に雙日なく、國に二王なし。是の故に天下を兼ね併せて、萬民を使ひたまふべきは唯天皇のみ」とあり、又天皇は國司に「他の貨賂を取りて民を貧苦に致さしむることを得ず」と詔らせられてゐる。


かくて大化の改新は、氏族の私有せる部民田莊を奉還せしめ、一切の政權を擧げて朝廷に歸し、陋習打破のために外來の思想・制度をも參酌せられたのであるが、大化元年の詔には、

當に上古の聖王(ひじりのきみ)の跡に遵ひて、天下を治むべし。

と仰せられ、又同三年の詔には、

惟神もわが子(みこ)治(しら)さむと故(こと)寄(よ)させき。是を以て天地の初より君と臨(しら)す國なり。・・・是の故に今は隨在天神(かむながら)も治平(をさめことむ)くべきの運(よ)に屬(あた)りて、斯等を悟らしめて、國を治め民を治むること、是を先にし是を後にす。今日明日、次ぎて續きて詔らせむ。

と宣はせられ、惟神肇國の大義によつて、現御神(あきつみかみ)にまします天皇を中心とする古の精神に復さんとする宏謨を示し給うた。


又蘇我石川麻呂が「先づ以て神祇を祭(いは)ひ鎭めて、然して後に應に政事を議(はか)るべし」と奏せるが如きは、古來の祭政一致の體制に則とらんとするものである。かくの如く復古維新の精神によつて改革が行はれ、天業が恢弘せられて行くところに、我が惟神の大道の顯現を見ることが出來る。


この改革は大化年代を以て完成せられたのではなく、更に文武天皇の御世に及んでゐる。即ち諸般の法例は近江令によつて纏められ、次いで大寶の律令制度となり、更に養老の修正を見た。天武天皇は、大いに神祇を崇敬せられ、又上古の諸事の撰録及び後葉に傳ふべき帝紀の編纂に著手せしめ給うた。この御精神御事業は、繼承せられて、後に古事記の撰録、日本書紀の編纂となつた。


和氣清麻呂の誠忠 
先に蘇我氏の無道僭上が除かれ、我が國本來の大道に復歸したことを述べたのであるが、稱徳天皇の御代には、僧道鏡が威權朝野を壓して非望を懷くに至つた。


併しながらこれに對して、和氣ノ清麻呂が勅によつて神の御敎を拜し、毅然たる精神を以て、一身の安危を忘れ、敢然立つてその非望を挫いた。清麻呂の復命した神の御敎は、續日本紀に、

我が國家開闢より此來(このかた)、君臣定まりぬ。臣を以て君と爲ること未だ之れ有らざるなり。天ツ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(はらひのぞ)くべし。

と見えてゐる。


清麻呂は、これによつてよく天壤無窮の皇位を護り、皇運扶翼の大任を果したのであつて、後に孝明天皇は、清麻呂に護王大明神の神號を賜うたのである。


鎌倉幕府の創設 
源頼朝が、平家討滅後、守護・地頭の設置を奉請して全國の土地管理を行ひ、政權を掌握して幕府政治を開いたことは、まことに我が國體に反する政治の變態であつた。


それ故、明治天皇は、陸海軍軍人に下し賜へる勅諭に於て、幕府政治について「且は我國體に戻り且は我祖宗の御制(おんおきて)に背き奉り淺間しき次第なりき」と仰せられ、更に「再(ふたゝび)中世以降の如き失體なからんことを望むなり」と御誡めになつてゐる。


建武の中興 
源氏の滅後、執權北條氏屡々天皇の命に從はず、義時に至つては益々不遜となつた。依つて後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は、御親政の古に復さんとして北條氏討滅を企て給うた。これ、肇國の宏謨を繼ぎ給ふ王制復古の大精神に出でさせられたのであつた。


然るにこの間に於ける北條氏の惡逆は、まことに倶に天を戴くべからざるものであつた。併しながら三上皇の御精神は、遂に後宇多天皇より後醍醐天皇に至つて現れて建武中興の大業となつた。當時皇室に於かせられて、延喜・天暦の聖代に倣つて世を古に復さんと志し給うたことは、種々の文獻に於てうかゞふことが出來る。


實に建武の中興は、遡つては大化の改新と相應じ、降つては明治維新を喚び起すところの聖業であつて、これには天皇を始め奉り諸親王の御盡瘁と共に、幾多の忠臣の輔佐があつた。即ち忠臣には、北畠親房・日野資朝・日野俊基等を始め、新田義貞、楠木正成等我あつて、囘天の偉業が成就せられた。


わけても楠木正成の功業は、永く後人の龜鑑となつてゐる。太平記には「主上御簾(みす)を高く捲かせて、正成を近く召され、大義早速の功、偏に汝が忠戰にありと感じ仰せられければ」、正成畏まつて「是君の聖文神武の徳に依らずんば、微臣爭か尺寸の謀を以て強敵の圍いを出づべく候乎」と奉答したと見えてゐる。


まことにこれ、忠臣の精神と事業とが我を沒して、天皇の大御心、肇國の大精神を奉體し、そこより出づる純粹精神・純粹行なることを示すものである。かの湊川神社に於ける墓碑に「嗚呼忠臣楠子之墓」とあるのは、この楠木氏の精忠を永く後世に傳へるものである。


以上の如き建武の中興の大業も、政權の爭奪をこととして大義を滅却した足利尊氏によつて覆された。即ち足利尊氏の大逆無道は、國體を辨へず、私利を貪る徒を使嗾して、この大業を中絶せしめた。


かくて天皇が政治上諸般の改革に進み給ひ、肇國の精神を宣揚せんとし給うた中興の御事業は、再び暗雲の中に鎖されるに至つた。北畠親房は、このことについて、

凡そ王土にはらまれて、忠をいたし命を捨つるは人臣の道なり。必ずこれを身の高名と思ふべきにあらず。しかれども、後の人をはげまし、其の跡をあはれみて賞せらるゝは、君の御政なり。下として競ひ諍ひ申すべきにはあらぬにや。まして、させる功なくして過分の望をいたす事、みづからあやぶむるはしなれど、前車の轍をみることは、實(まこと)に有りがたき習なりけむかし。

と嘆じてゐる。


太平記に見えてゐる後醍醐天皇の御遺詔には、

只、生々世々の妄念とも成べきは、朝敵を悉く亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふ計りなり。朕即ち早世の後は第八ノ宮を天子の位に即け奉り、賢士忠臣事を圖り、義助(よしすけ)が忠功を賞して、子孫不義の行なくば、股肱の臣として、天下を愼むべし。

と仰せられてある。


後醍醐天皇から第四代、御悲運の約六十年間は、吉野に在らせられたのであるが、後龜山天皇は、民間の憂を休め給はんとの大御心から、御讓位の儀を以て神器を後小松天皇に授け給うた。


この間に在つて、朝廷の支柱となつた北畠親房は、神皇正統記を著して「神皇正統のよこしまなるまじき理」を述べて、我が國の大道を闡明したのである。親房のこの偉大なる事業は、降つては大日本史等の史書が著され、國體の明徴にせられる因由となつた。


又吉野朝の征西將軍懷良親王が、明の太祖の威嚇に對して、毫も國威を辱しめられなかつた御態度は、肇國の精神を堅持せられた力強き外交であり、その後、尊氏の子孫たる義滿・義政が、内、大義を忘れ、名分を紊したのみならず、外、明に對して國威を毀損した態度とは實に霄壤の差がある。


室町時代以後に於て、畏くも皇室の式微の間にも、天壤無窮の皇運は、微動だもすることなく、國内紛亂の裡にも尊皇敬神の實績はあがり、その精神は常に忘れられることはなかつた。これに加ふるに、神道思想次第に勃興し、又國民の皇室に對する崇敬は、數々の美しい忠誠の事蹟となつて現れた。


江戸時代の尊皇精神 
先に鎌倉時代に於て宋學・禪學が大義名分論・國體論の生起に與つて力があり、延いて建武中興の大業の達成に及んだのであるが、徳川幕府は朱子學を採用し、この學統より大日本史の編纂を中心として水戸學が生じ、又それが神道思想、愛國の赤心と結んでは、山崎闇齋の所謂崎門學派を生じたのである。

闇齋の門人淺見絅齋の請獻遺言、山鹿素行の中朝事實等は、いづれも尊皇の大義を強調したものであつて、太平記、頼三陽の日本外史、倉澤正志齋の新論、藤田東湖の弘道館記述義、その他國學者の論著等と共に、幕末の勤皇の志士に多大の影響を與へた書である。


儒學方面に於ける大義名分論と竝んで重視すべきものは、國學の成立とその發展とである。國學は、文獻による古史古文の研究に出發し、復古主義に立つて古道・惟神(かむながら)の大道を力説して、國民精神の作興に寄與するところ大であつた。


本居宣長の古事記傳の如きはその第一に擧ぐべきものであるが、平田篤胤等も惟神の大道を説き、國學に於ける研究の成果を實踐に移してゐる。徳川末期に於ては、神道家・儒學者・國學者等の學統は志士の間に交錯し、尊皇思想は攘夷の説と相結んで勤皇の志士を奮起せしめた。實に國學は、我が國體を明徴にし、これを宣揚することに努め、明治維新の原動力となつたのである。


明治維新 
歴代天皇の御仁徳のいつの代にも渝らせ給はざるは、申すも畏き御事であるが、徳川幕府末期の困難なる外交にいたく宸襟を惱ませられた孝明天皇は、屡々關白以下の廷臣及び幕府に勅諚を賜うて、神州の瑕瑾を招かず、皇祖皇宗の御遺業を穢さず、又赤子を塗炭に陷らぬしめぬやう諭し給ひ、特に重要政務を奏上せしめ、その勅裁を仰がしめ給うた。


この非常の時局に際し、皇國の前途を憂へた諸侯・志士等も、内には幕政を改革して國防の充實を遂げ、外には禦侮の籌策の確立せられんことを冀つて、朝廷を慕ひ朝旨を仰がんと欲し、公卿・堂上に接近入説するに至つたので、朝威は次第に伸長して來たのである。


夙に洋學を學んだ者には外國文化を攝取して國力を強盛にせんがため、鎖國の不可を説く者もあつたが、天下の形勢は幕府の改造から攘夷討幕に進み、開國公武合體と對立するに至り、内外の時局は、益々紛糾して危急に陷つた。


まことに内亂一度起らば、外患これに乘じて到るべきは明らかであつた。前土佐藩主山内豐信は、この情勢を察知して明治天皇御踐祚の後、王制復古、政令一途に出でんことを將軍徳川慶喜に建白した。慶喜も夙にこのことを考慮してゐたので、慶應三年十月十四日、

愈朝權一途ニ出不レ申候而者綱紀難レ立候間、從來之舊習ヲ改メ、政權ヲ朝廷ニ奉レ歸、廣ク天下之公議ヲ盡シ、聖斷ヲ仰ギ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得バ、必ズ海外萬國ト可ニ竝立ー候。臣慶喜國家ニ所レ盡、是ニ不レ過ト奉レ存候。

と上表して大政を奉還せんことを奏請し、明治天皇乃ちこれを嘉納し給うた。次いで同年十二月九日、王制復古の大號令が下された。その中に、

王制復古國威挽囘ノ御基被レ爲レ立候間自今攝關幕府等廢絶即今先假ニ總裁議定參與之三職被レ置萬機可レ被レ爲?レ行諸事神武創業之始ニ原キ縉紳武弁堂上地下之無レ別至當之公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可レ被レ遊叡慮ニ付各勉勵舊來驕惰之汚習ヲ洗ヒ盡忠報國之誠ヲ以テ可レ致ニ奉公ー候事

とあり、復古は當に神武天皇の肇基に原づき、寰宇の統一を圖り、萬機の維新に從ふを以て基準と爲し、百事創業の精神を以て庶政を一新すべきことを宣揚し給うた。更に明治元年三月には、五箇條の御誓文を宣示せられ、同時に賜はつた宸翰に、

朕茲ニ百官諸侯ト廣ク相誓ヒ?列祖ノ御偉業ヲ繼述シ一身ノ艱難辛苦ヲ問ス親ラ四方ヲ經營シ汝億兆ヲ安憮シ遂ニハ萬里ノ波濤ヲ拓開シ國威ヲ四方ニ宣布シ天下ヲ富岳ノ安キニ置ン事ヲ欲ス

と仰せられてあるのを拜誦する時、天皇御親ら、玉體を勞し宸襟を惱ませられて、艱難辛苦の先に立ち給ひ、以て上は列祖の神靈に應へ、外は萬國に國威を輝かさんとし給うた深い叡慮と強い御決心とが拜せられる。


而してこの明治維新は、舊來の陋習を破り、知識を廣く世界に求められたのであるが、それと共に、又惟神(かむながら)の大道を宣揚し給ひ、我が國古來の精神に則とるべきことを大本とし給うたのである。


かくの如くして諸藩の版籍奉還があり、更に廢藩置縣が行はれて、大政全く朝廷に歸して王制の復古を仰ぎ、維新の大業は成就した。國民の覺醒が常に天皇を中心として展開する姿は、こゝに遺憾なく顯現してゐる。


この偉業を翼贊し奉つた先人の功勞、志士の遺烈は深く欽仰すべきはもとより、慶喜がフランス公使より幕府を援助せんとする申出に對して、斷然これを拒絶し、以て外國干渉の累を斷つた例の如きも、亦見逃すことを得ない。


明治二十二年二月十一日、皇室典範及び憲法御制定についての御告文(おつげぶみ)に、

皇朕レ謹ミ畏ミ皇祖皇宗ノ神靈ニ誥ケ白サク皇朕レ天壤無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ寶祚ヲ承繼シ舊圖ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ發達ニ隨ヒ宜ク皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行セシメ益々國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民生ノ慶福ヲ増進スヘシ茲ニ皇室典範及憲法ヲ制定ス

と宣ひ、又憲法發布勅語には、

朕國家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣榮トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大權ニ依リ現在及將來ノ臣民ニ對シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス

と宣はせられてある。


即ち我が典憲は、肇國の初に當つて、日星の如く昭かなる大義を時代の進運に適應して紹述遊ばされ、丕基を永遠に鞏固にせられたものである。我が欽定憲法は「朕カ後嗣及臣民及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシム」と仰せられた萬古不磨の大典であつて、肇國の精神の一貫してこゝに彌々鞏きを見る。更に明治二十三年十月三十日には「敎育ニ關スル勅語」を下し給ひ、我が國の敎育が一に國體に淵源することを昭示遊ばされた。


以上我等は、我が國史の展開が、天皇に於かせられては皇祖皇宗の遺訓の御紹述であり、臣民にあつては私を去つてよく分を全うし、忠誠以て皇運を扶翼し奉るにあることを見た。


而してこの上下一如の大精神は、既に我が肇國に於て明らかに示されたものであつて、この大精神が國史を貫き、世々厥の美を濟して今日に至つてゐる。こゝに我等は、戊申詔書に「炳トシテ日星ノ如シ」と仰せられた國史の輝かしい成跡を見るのである。


二、國土と國民生活 
國 土 
我が國土は、語事(かたりごと)によれば伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊の生み給うたものであつて、我等と同胞の關係にある。我等が國土・草木を愛するのは、かゝる同胞的親和の念からである。


即ち我が國民の國土愛は、神代よりの一體の關係に基づくものであつて、國土は國民と生命を同じうし、我が國の道に育まれて益々豐かに萬物を養ひ、共に大君に仕へ奉るのである。


かくて國土は、國民の生命を育て、國民の生活を維持進展せしめ、その精神を養ふ上に缺くべからざるものであつて、國土・風土と國民との親しく深き關係は、よく我が國柄を現してをり、到るところ國史にその跡を見ることが出來る。


遠き祖先よりの語り傳へが、我が國性を示し、天皇御統治の大本を明らかにするものとして、撰録せられて古事記となり、編纂せられて日本書紀となつたが、これに伴つて風土記の撰進を命ぜられたのは、我が國體と國土との深い關係を物語るものである。


こゝに「古事」と「風土」との分つことの出來ない深い關係を見る。我が國の語事に於ては、國土と國民とが同胞であることが物語られてゐる。我が國民の國土に親しみ、國土と一になる心は非常に強いのであつて、農業に從ふ人々が、季節の變化に應和し、隨順する姿はよくこれを示してゐる。それは祭祀を中心とする年中行事を始め、衣食住の生活樣式の上にまで行き亙つてゐる。


萬葉集に見える「吉野宮に幸せる時、柿本朝臣人麿の作れる歌」に

やすみしし 我が大王(おおきみ) 神(かむ)ながら 神さびせすと 芳野川(よしのがは) たぎつ河内(かふち)に 高殿を 高しりまして 登り立ち 國見をすれば 疊(たゝな)はる 青垣山 山祇(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつぎ)と 春べは 花かざしもち 秋立てば 黄葉(もみぢ)かざせり ゆきそふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川(うがは)を立て 下つ瀬に 小網(さで)さし渡し 山川も 依りてつかふる 神の御代かも

    反 歌

山川も よりてつかふる 神ながら

      たぎつ河内に 船出せすかも

とある。


この歌を誦む者は、我が國民の國土・自然を見る心を知ることが出來るであらう。即ち國民も國土も一になつて天皇に仕へまつるのである。國民はかゝる心を以て國土・自然と親しみ、その中に生活し、又それによつて産業を營むのである。これ固より神代に於て天ツ神が我等と國土とを同胞として生み給うたところから出づるのである。


國民生活 
この本を一つにする親和・合體の心は、我が國民生活を常に一貫して流れてゐる。この精神のあるところ、國民生活は如何なる場合にも對立的でなく、一體的なものとして現れて來る。


我が國に於ては、政治上・社會上の制度の變遷にも拘らず、いつの時代にも常にこの心が現れてゐる。古くは氏族が國民生活の基本をなし、經濟生活の單位であつて、それは天皇の下に同一血族・同一精神の團體をなしたのである。


即ち各人は氏に統合せられ、多くの氏人の上に氏上(うじのかみ)があり、これに部曲(かきべ)の民が附隨し、氏・部としての分業分掌があり、職業によつて、あらゆる人と物とが相倚り相扶けて、天皇を中心として國家をなした。


而して夫々の氏族内に於ては、氏上が氏神を祀り、氏人も亦氏上と一體となつて同一の祖先を祭るのである。而してこの祭祀を通じて、氏上と氏人とはたゞ一つとなつて祖先に歸一する。そこに氏の政事もあり、敎化もあり、またその職業もある。かくてこの一體たるものを氏上が率ゐて朝廷に奉仕した。


かやうな親しい結合關係は、國史を通じて常に存續してゐた。これは自我を主張する主我的な近代西洋社會のそれと全く異なるものであり、國初より連綿として續く一體的精神と事實とに基づくものであつて、我が國民生活はその顯現である。


そこには、一家・一郷・一國を通じて必ず融和一體の心が貫いてゐる。即ち天皇の下に人と人、人と物とが一體となるところに我が國民生活の特質がある。これ、義は君臣にして情は父子といふ一國即一家の道の存する所以であり、君民一體となり、親子相和して、美しき情緒が家庭生活・國民生活に流れてゐる所以である。


職 業 
氏族に於ける職業の分掌は、やがて家業尊重の精神を生んでをり、家業の尊重は家名即ち名を重んずることとなる。我が國の古代に於ける名は、個人の氏名の意味ではなく、氏の職業が名である。こゝに我が國民の職業を重んじ、家名を尊重する精神を見ることが出來る。


而してつとめの尊重は、宣命を始めとして多くの史實に見られる。天武天皇の御制定になつた冠位の名稱にも勤務追進の文字が用ゐられてゐる。この勤務尊重の精神は、生産・創造・發展のむすびの心であつて、我が國産業の根本精神である。この精神は古來農業に於て最もよく培はれた。


豐葦原の瑞穗の國といふ我が國名は、國初に於ける國民生活の基本たる農事が尊重せられたことを示すものであり、年中恆例の祭祀が農事に關するものの多いのもこの精神の現れである。天照大神を奉祀する内宮に竝んで外宮に豐受大神を奉祀し、上、皇室を始め奉り、國民が深厚なる崇敬を捧げ來つてゐることにも深く思を致すべきであろう。


國民の職業が農業の外に、商業・工業等種々なる方面に分岐發展してゐる今日に於ては、農業を尊重し給ふと同じ御心は、これらのあらゆる産業についてもうかゞふことが出來る。昭憲皇太后の御歌に、

ひのもとの くにとまさむと あき人の

       きそふ心ぞ たからなりける

と詠ませられて、商業の重んずべきことを示し給うてゐる。


我等はよくこの御精神を拜して、時勢の進運に伴ひ、各々その職業にいそしまねばならぬ。


三、國民性 
風土と國民性 
山鹿素行は、中朝事實に「中國の水土は萬邦に卓爾し、人物は八紘に清秀なり」と述べてゐるが、まことに我が國の風土は、温和なる氣候、秀麗なる山川に惠まれ、春花秋葉、四季折々の景色は變化に富み、大八洲國は當初より日本人にとつて快い生活地帶であり、「浦安の國」と呼ばれてゐた。


併しながら時々起る自然の災禍は、國民生活を脅すがごとき猛威をふるふこともあるが、それによつて國民が自然を恐れ、自然の前に威壓せられるが如きことはない。災禍は却つて不撓不屈の心を鍛練する機會となり、更生の力を喚起し、一層國土との親しみを増し、それと一體の念を彌々強くする。


西洋神話に見られるが如き自然との鬪爭は、我が國の語事(かたりごと)には見られず、この國土は、日本人にとつてはまことに生活の樂土である。「やまと」が漢字で大和と書かれたことも蓋し偶然ではない。


頼三陽の作として人口に膾炙せる今樣に、

花より明くるみ吉野の 春の曙見わたせば もろこし人も高麗人も 大和心になりぬべし

とあるのは、我が美しき風土が大和心を育み養つてゐることを示したものである。


又本居宣長がこの「敷島の大和心」を歌つて、「朝日に匂ふ山櫻花」といつてゐるのを見ても、如何に日本的情操が日本の風土と結びついてゐるかが知られよう。更に藤田東湖の正氣の歌には、

天地正大の氣、粹然として神州に鍾(あつ)まる 秀でては不二の嶽となり、巍巍として千秋に聳え 注いでは大瀛(えい)の水となり、洋々として八州を環る 發しては萬朶の櫻となり、衆芳與に儔(たぐひ)し難し

とあつて、國土草木が我が精神とその美を競ふ有樣が詠まれてゐる。


清明心 
かゝる國土と既に述べた如き君民和合の家族的國家生活とは、相俟つて明淨正直の國民性を生んだ。即ち文武天皇御即位の宣命その他に於て、

明き淨き直き誠の心 淨き明き正しき直き心

と繰り返されてゐる。


これは既に、神道に於ける禊祓の精神として語事にもうかがはれるのであるが、天武天皇の十四年に御制定になつた冠位の名稱には、勤務追進の上に明淨正直の文字が示され、如何にこの國民性が尊重せられたかがわかる。


明淨正直は、精神の最も純な力強い正しい姿であつて、所謂眞心であり、まことである。このまことの外部的表現としての行爲・態度が勤務追進である。即ちこの冠位の名稱は、明るい爽やかな國民性の表現であり、又國民の生活態度でもあつた。


而してまことを本質とする明淨正直の心は、單なる情操的方面に止まらず、明治天皇の御製に、

しきしまの 大和心の をゝしさは

       ことある時ぞ あらはれにける

と仰せられてある如く、よく義勇奉公の精神として發現する。


萬葉集には「海行かば 水漬くかばね 山行かば 草むすかばね 大皇の 邊にこそ死なめ かへりみはせじ」と歌はれ、蒙古襲來以後は、神國思想が顯著なる發達を遂げて、大和魂として自覺せられた。まことに大和魂は「國祚之永命を祈り、紫極之靖鎭を護り」來つたのであつて、近くは日清・日露の戰役に於て力強く覺醒せられ、且具現せられた。


明き清き心は、主我的・利己的な心を去つて、本源に生き、道に生きる心である。即ち君民一體の肇國以來の道に生きる心である。こゝにすべての私心の穢は去つて、明き正しき心持が生ずる。私を沒して本源に生きる精神は、やがて義勇奉公の心となつて現れ、身を捨てて國に報ずる心となつて現れる。


これに反して、己に執し、己がためにのみ計る心は、我が國に於ては、昔より黑(きたな)き心、穢れたる心といはれ、これを祓ひ、これを去ることを努めて來た。我が國の祓は、この穢れた心を祓ひ去つて、清き明き直き本源の心に歸る行事である。それは、神代以來國民の間に廣く行はれて來た行事であつて、大祓の詞に、

かく聞食(きこしめ)してば、皇御孫(すめみま)の命(みこと)の朝廷(みかど)を始めて、天の下四方(よも)の國には、罪と云ふ罪は在らじと、科戸(しなと)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、朝(あした)の御霧(みぎり)夕(ゆふべ)の御霧を、朝風夕風の吹き掃ふ事の如く、大津邊(おほつべ)に居(を)る大船を舳(へ)解き放ち、艫(とも)解き放ちて、大海原に押し放つ事の如く、彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本を、燒鎌(やきかま)の敏鎌(とがま)以(も)ちて打ち掃ふ事の如く、遺(のこ)る罪は在らじと、祓へ給ひ、清め給ふ事を、高山の末短山(ひきやま)の末よりさくなだりに落ちたぎつ速川(はやかわ)の瀬に坐(ま)す瀬織津比(せおりつひめ)と云ふ神、大海原に持ち出でなむ。

かく持ち出で往(い)なば荒鹽の鹽の八百道(やほぢ)の八鹽道(やしほぢ)の鹽の八百會(やほあひ)に坐(ま)す速開都比(はやあきつひめ)と云ふ神、持ち可可(かか)呑みてむ。かく可可呑みてば、氣吹戸(いぶきど)に坐(ま)す氣吹戸主と云ふ神、根の國底の國に氣吹(いぶ)き放ちてむ。

かく氣吹き放ちてば、根の國底の國に坐す速佐須良比(はやさすらひめ)と云ふ神、持ちさすらひ失ひてむ。かく失ひてば、天皇(すめら)が朝廷に仕へ奉る官官(つかさつかさ)の人等(たち)を始めて、天の下四方には、今日より始めて、罪と云ふ罪は在らじ・・・

とある。


これ我が國の祓の清明にして雄大なる精神を表したものである。國民は常にこの祓によつて、清き明き直き心を維持し發揚して來たのである。


人が自己を中心とする場合には、沒我獻身の心は失はれる。個人本位の世界に於ては、自然に我を主として他を從とし、利を先にして奉仕を後にする心が生ずる。西洋諸國の國民性・國家生活を形造る根本思想たる個人主義・自由主義等と、我が國のそれとの相違は正にこゝに存する。


我が國は肇國以來、清き明き直き心を基として發展して來たのであつて、我が國語・風俗・習慣等も、すべてこゝにその本源を見出すことが出來る。


沒我同化 
わが國民性には、この沒我・無私の精神と共に、包容・同化の精神とその働とが力強く現れてゐる。大陸文化の輸入に當つても、己れを空しうして支那古典の字句を使用し、その思想を採り入れる間に、自ら我が精神がこれを統一し同化してゐる。


この異質の文化を輸入しながら、よく我が國獨特のものを生むに至つたことは、全く我が國特殊の偉大なる力である。このことは、現代の西洋文化の攝取についても深く鑑みなければならぬ。


抑々沒我の精神は、單なる自己の否定ではなく、小なる自己を否定することによつて、大なる眞の自己に生きることである。元來個人は國家より孤立したものではなく、國家の分として各々分擔するところをもつ個人である。分なるが故に常に國家に歸一するをその本質とし、こゝに沒我の心を生ずる。


而してこれと同時に、分なるが故にその特性を重んじ、特性を通じて國家に奉仕する。この特質が沒我の精神と合して他を同化する力を生ずる。沒我・獻身といふも、外國に於けるが如き、國家と個人とを相對的に見て、國家に對して個人を否定することではない。


又包容・同化は他の特質を奪ひ、その個性を失はしむることではなく、よくその短を棄てて長を生かし、特性を特性として、採つて以て我を豐富ならしめることである。こゝに我が國の大いなる力と、我が思想・文化の深さと廣さとを見出すことが出來る。


國 語 
沒我歸一の精神は、國語にもよく現れてゐる。

國語は主語が屡々表面に現れず、敬語がよく發達してゐるといふ特色をもつてゐる。これはものを對立的に見ずして、沒我的・全體的に思考するがためである。


而して外國に於ては、支那・西洋を問はず、敬語の見るべきものは少ないが、我が國に於ては、敬語は特に古くより組織的に發達して、よく恭敬の精神を表してゐるのであつて、敬語の發達につれて、主語を表さないことも多くなつて來た。


この恭敬の精神は、固より皇室を中心とし、至尊に對し奉つて己れを空しうする心である。おほやけに對するわたくしの語を以て自稱とし、古くから用ひられる「たまふ」、或は「はべる」「さぶらふ」等の動詞を崇敬・敬讓の助動詞に轉じて用ゐるが如きがこれである。


而してこの「さぶらふ」「さむらふ」といふ文字から武士の意味の「侍」の語が出たのであり、書簡文に於ける候文の發達となつた。今日用ゐられてゐる「御座います」の如きも、同樣に高貴なる座としての「御座ある」と、「いらつしやる」「御出でになる」といふ意味の「います」から來た「ます」とからなつてゐるのである。


風俗習慣 
次に風俗・習慣に於ても、わが國民性の特色たる敬神・尊皇・沒我・和等の精神を見ることが出來る。平素の食事もご飯を戴くといひ、初穗を神に捧げ、先づ祖先の靈前に供へた後、一家の者がこれを祝ふのは、食物は神より賜はつたものであり、それを戴くといふ心持を示してゐる。


新年の行事に於て、門松を立て、若水を使ひ、雜煮を祝ふところにも、遠い祖先からの傳統生活がある。賀詞を述べて齡を祝ふのは、古に於ては、氏上が聖壽を祝ひ奉る壽詞(よごと)の精神につながるものであり、萬歳の稱呼の如きも亦同じ意味の祝言である。


鎭守はもとより、氏神樣といふのは、大體に於て産土(うぶすな)の神と考へてよいが、地方的な團體生活の中心をなして今日に及んでゐる。今日の彼岸會(ひがんゑ)や盂蘭盆會(うらぼんゑ)の行事は、佛敎のそれと民族信仰と合したものと思はれ、鎭守の杜や寺の境内で行はれる盆踊について見ても、農村娯樂の間にこの兩系統の信仰の融合統一が見られる。


農事に關しては、豐年を祝ふ心、和合共榮の精神、祖先崇拜の現れ等をうかがふことが出來、同時に我が舞踏に多い輪をどりの形式にも、中心に向つて統一せられる沒我的な特色が出てゐて、西洋の民族舞踊に多い男女對偶の形式に相對してゐる。子供が生まれた時、お宮參りをさせる風習が廣く行はれてゐるが、これには氏神に對する古からの心持が現れてゐる。


年中行事には節供の如きものがあり、自然との關係、外來文化の融合調和等が見られるが、更に有職故實等に及んでは、その形の奧に汲み出される傳統精神を見逃すことは出來ない。


年中行事には、既に舉げたやうに氏族生活の俤を留めるものもあれば、宮廷生活の間から生まれたものもあり、又武家時代に儀式として定められたものもある。いづれもその底には我が傳統の精神が輝いてゐる。


雛祭の如きは、最初は祓の行事を主體とし、平安時代の貴族の生活に入つて、ひいなの遊びとなり、娯しみと躾とを併せた儀式的な行事となつた。更にそれが江戸時代になつては、内裏雛を飾り、皇室崇敬の心を託することになつた。


四、祭祀と道徳 
祭 祀 
明治天皇の御製に、

神風の 伊勢の宮居の ことをまづ

      今年も物の 始にぞきく

と仰せられてあるのは、我が政始(まつりごとはじめ)の御儀を御歌ひになつたのであつて、この御儀には、總理大臣が、先づ前年中、神宮の祭祀の滯りなく奉仕せられた旨を奏上する。


こゝに、我が國政治の最も重要なものとして、祭祀をみそなはせ給ふ大御心を拜することが出來る。大日本史の神祇志に、

??夫れ祭祀は政敎の本づく所。敬神尊祖、孝敬の義天下に達す。凡百の制度も亦是によつて立つ。

とあるのは、祭祀と政治と敎育とが根源に於て一致する我が國の特色をよく明らかにしてゐる。


我が國は現御神にまします天皇の統治し給ふ神國である。天皇は、神をまつり給ふことによつて天ツ神と御一體となり、彌々現御神(あきつみかみ)としての御徳を明らかにし給ふのである。


されば天皇は特に祭祀を重んぜられ、賢所・皇靈殿・神殿の宮中三殿の御祭祀は、天皇御親らこれを執り行はせ給ふのである。明治二年、神祇官内に神殿を建てて、天神地祇・御歴代皇靈を奉祭せられ、同三年、天皇は鎭祭の詔を渙發し給うて、

朕恭しく惟みるに?大祖業を創め?神明を崇敬し、蒼生を愛撫す。祭政一致由來する所遠し矣。朕寡弱を以て夙に聖緒を承け、日夜(忙-亡+朮)(忙-亡+易)、天職の或は虧くることを懼る。

乃ち祇(まさ)に天神地祇八神曁(およ)び列皇神靈を神祇官に鎭祭して、以て孝敬を申ぶ。庶幾くは、億兆をして矜式(きょうしよく)するところあらしめむ。

と仰せられた。


臣民は、この大御心を承け奉つて、同じく祭祀を以て我が肇國の精神を奉體し、私を捨てて天皇の御安泰を祈り奉り、又國家に奉ずる精神を磨くのである。かくの如く天皇の神に奉仕せられることと臣民の敬神とは、いづれもその源を同じうし、天皇は祭祀によつて彌々君徳を篤くし給ひ、臣民は敬神によつて彌々その分を竭くすの覺悟を堅くする。


我が國の神社は、古來祭祀の精神及びその儀式の中心となつて來た。神社は惟神の道の表現であつて、神に奉齋し、報本反始の誠を致すところである。御鏡に關する神勅は、神宮竝びに賢所の奉齋の由つて來る本であり、神社存立の根本義は、日本書紀の皇孫降臨の條に於ける天ツ神籬(ひもろぎ)及び天ツ磐境(いはさか)に關する神勅にある。


即ち高御産靈ノ神が、天ノ兒屋ノ命・太玉ノ命に、

吾は則ち天ツ神籬(ひもろぎ)及び天ツ磐境を起樹(た)てて、當に吾孫(すめみま)の爲めに齋(いは)ひ奉(まつ)らむ。汝(いまし)天の兒屋ノ命、太玉ノ命、宜しく天ツ神籬を持ちて、葦原の中ツ國に降りて、亦吾孫の爲めに齋ひ奉れ。

と仰せられた御心に副ひ奉るのである。


神社に齋(いつ)き祀る神は、皇祖皇宗を始め奉り、氏族の祖(おや)の命(みこと)以下、皇運扶翼の大業に奉仕した神靈である。この神社の祭祀は、我が國民の生命を培ひ、その精神の本となるものである。氏神の祭に於て報本反始の精神の發露があり、これに基づいて氏人の團欒があり、又御輿を擔いで渡御に仕へる鎭守の祭禮に於て、氏子の和合、村々の平和がある。


かくて神社は國民の郷土生活の中心ともなる。更に國家の祝祭日には國民は日の丸の國旗を掲揚して、國民的敬虔の心を一にする。而してすべての神社奉齋は、究極に於て、天皇が皇祖皇宗に奉仕し給ふところに歸一するのであつて、こゝに我が國の敬神の根本が存する。


祭には、穢を祓つて神に奉仕し、まことを致して神威を崇め、神恩を感謝し、祈願をこめるのである。神に向ふ心持は我が國に於ては親と子との關係といふ最も根本的なところから出てゐる。即ち罪穢を祓つて祖(おや)に近づくことであり、更に私を去つて公に合し、我を去つて國家と一となるところにある。


而してその穢を去つた敬虔な心からの自然の發露としては、西行法師の

何事の おはしますをば 知らねども

         忝さの 涙こぼるる

といふ歌がある。


神社は國家的の存在であるのを根本義とするものであるから、令(りやう)に於ける神祇官以來、國家の制度・施設として存して來たのであつて、現在に於ける各派神道、その他の一般の宗敎とはその取扱を異にしていゐる。


明治天皇の御製には、

とこしへに 民やすかれと いのるなる

    わがよをまもれ 伊勢のおほかみ

と仰せられ、又、祝部(はふりべ)行氏(ゆきうぢ)も、

神垣に 御代治まれと 祈るこそ

       君に仕ふる 誠なりけれ

と詠んでゐる。


かくて皇大神宮は我が國神社の中心であらせられ、すべての神社は國家的の存在として、國民の精神生活の中軸となつてゐる。


我が國祭祀の本旨は以上の如きものであるが、これを西洋の神に對する信仰に比すると、その間に大なる徑庭がある。西洋の神話・傳説にも多くの神々が語られてゐるが、それは肇國の初よりつながる國家的な神ではなく、又國民・國土の生みの親、育ての親としての神ではない。


我が國の神に對する崇敬は、肇國の精神に基づく國民的信仰であつて、天や天國や彼岸や理念の世界に於ける超越的な神の信仰ではなく、歴史的國民生活から流露する奉仕の心である。從つて我が國の祭祀は、極めて深く且廣き意義をもつと同時に、又全く國家的であり、實際生活的である。


道 徳 
以上の如き敬神崇祖の精神が、我が國民道徳の基礎をなし、又我が文化の各方面に行き亙つて、外來の儒敎・佛敎その他のものを包容同化して、日本的な創造をなし遂げしめた。


我が國民道徳は、敬神崇祖を基として、忠孝の大義を展開してゐる。國を家として忠は孝となり、家を國として孝は忠となる。こゝに忠孝は一本となつて萬善の本となる。


忠は、明淨正直の誠を本として勤務(つとめ)をはげみ、分を竭くし、以て天皇に奉仕することであり、この忠を本として親に對する孝が成り立つ。それは我が國民が、祖先以來行つて來た古今に通じて謬らざる惟神の大道である。


「敎育ニ關スル勅語」には國民道徳の大本を敎へ給うて、

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

と仰せられ、又、

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

と宣はせられてある。


我が國に於て明淨正直の誠が重んぜられたことは、語事(かたりごと)に見え、宣命に示され、冠位の名ともなつたことによつて明らかである。寶基本紀等に「冥加は正直を以て本と爲す」といひ、又倭姫ノ命世記には、

黑(きたな)き心無くして丹(あか)き心を以て清く潔く齋(いもほ)り愼み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に歸り右に廻る事も、萬の事違ふ事なくして、大神に仕へ奉れ。元(はじめ)を元(はじめ)とし、本(もと)を本(もと)とする故なり。

と述べてある。


これは即ち明淨正直の精神を明らかにするものであつて、左右相混ぜず、右を右とし左を左とし、各々その位を正し、その分を明らかにして寸毫も違はず、一切の歪曲を許さず奸惡邪曲を容れない心である。


而してこの寸毫も違はない正直とその正直の働とを以て、始めて元を元とすることが出來る。北畠親房の神皇正統記は、この精神を承けて正直を強調し、その著とせられる元元集の名は右の文を直接の典據とすると思はれるが、國民道徳として特に心すべきことは、この左を左とし右を右とし、夫々のものをあるべき情態、正しき姿にあらしめ、以て元を元とし、本を本とすることである。


武士道 
我が國民道徳の上に顯著なる特色を示すものとして、武士道を舉げることが出來る。武士の社會には、古の氏族に於ける我が國特有の全體的な組織及び精神がよく繼承せられてゐた。故に主として儒敎や佛敎に學びながら、遂によくそれを超えるに至つた。


即ち主從の間は恩義を以て結ばれながら、それが恩義を超えた沒我の精神となり、死を視ること歸するが如きに至つた。そこでは死を輕んじたといふよりは、深く死に徹して眞の意味に於てこれを重んじた。


即ち死によつて眞の生命を全うせんとした。個に執し個を立てて全を失ふよりも、全を全うし全を生かすために個を殺さんとするのである。生死は根本に於て一であり、生死を超えて一如のまことが存する。生もこれにより、死も亦これによる。


然るに生死を對立せしめ、死を厭うて生を求むることは、私に執著することであつて武士の恥とするところである。生死一如の中に、よく忠の道を全うするのが我が武士道である。


戰國時代に於ても、領主はよく家長的精神を發揮して領民を愛護してゐる。これ又武士道の現れでなければならぬ。武士の心掛は、平時にあつては、家の傳統により敬神崇祖の心を養ひ、常に緩急に處する覺悟を練り、智仁勇を兼ね備へ、なさけを解し、物のあはれを知るものたらんと努めるにある。


武士道の大成に與つて力のあつた山鹿素行・松宮觀山・吉田松陰等は、いづれも敬神の念に篤い人人であつた。この武士道が、明治維新と共に封建の舊態を脱して、彌々その光を増し、忠君愛國の道となり、又皇軍の精神として展開して來たのである。


佛 敎 
佛敎は印度に發し、支那・朝鮮を經て我が國に入つたものであるが、それは信仰であると共に道徳であり、又學問である。


而して我が國に入つては國民精神に醇化せられて、國民的な在り方を以て發展した。古くは推古天皇二年春二月に、天皇は皇太子及び大臣に三寶興隆の詔を下し給ひ、その詔によって君恩と親恩とに報ずるために寺塔が建立せられた。


君親の恩を報ずるために寺を建てるといふ佛敎傳來初期のこの精神は、やがて南都佛敎に於て鎭護國家の精神として現れ、天台宗・眞言宗にいたつてはこの標識を掲げ、その後臨濟宗の興禪護國論の如き、又日蓮宗の立正安國論の如き主張となり、その他、新佛敎の祖師達も齊しく王法を重んじた。


而してこれと共に、その敎理的發達にも大いに見るべきものがあつた。眞言宗が森羅萬象を大日如來の顯現とし、即身成佛を説き、天台宗が草木國土も悉皆佛性をもち、凡夫も悟れば佛であるといひ、解脱を衆生に及ぼすことを説くところに、天照大神を中心とする神祇崇敬及び歸一沒我の精神、一視同仁、衆と共に和する心に相應ずるもののあるのを觀る。


南都佛敎の或ものに於ては、解脱に差別を説いてゐるのに、平安佛敎以後、特に無我に基づく差別即平等、平等即差別の佛敎本來の趣意を明らかにして、一切平等を説くに至つたのは、やはり差別即平等の心を有つ我が國の氏族的・家族的な精神、沒我的・全體的精神によつて攝取醇化せられたものであつて、例へば親鸞が御同朋御同行と呼びかけてゐるが如きこれである。


淨土宗・眞宗は聖道門に對する易行道(いぎやうだう)の淨土門をとり、還相囘向(げんさうゑかう)を説き、時宗は利他敎化(けうげ)の遊行(ゆぎやう)をなして、佛敎をして國民大衆の佛敎とした。


親鸞が阿彌陀佛の絶對他力の攝取救濟を説き、自然法爾(じねんほふに)を求めたところには、沒我歸一の精神が最もよく活かされてゐると共に、法然が時處所縁を嫌はず念佛して、ありのまゝの姿に於て往生の業(ごふ)を成ずることを説いたところには、日本人の動的な實際的な人生觀が現れてゐる。


又道元が、自己を空しうした自己の所行が道に外ならぬとし、治生産業皆これ報恩の行となす沒我的精神、實際的な立場を取る點に於て同樣のものをもつてゐる。この精神は、次第に神儒佛三敎一致等の説ともなつて現れるに至つた。


天台宗以下、釋尊よりの歴史的相傳師承を據り所とし、聖徳太子に復らうとする運動を生じたところには、歴史・傳統を尊重する精神が觀られる。


かやうにして我が國は大乘相應の地とせられて、佛敎を今日にあらしめたのであり、國民的な在り方、性格が自ら顯現してゐる。


かくの如く同化せられた佛敎が、我が文化を豐富にし、ものの見方に深さを與へ、思索を訓練し、よく國民生活に滲透し、又國民精神を鼓舞してゐるのであつて、彼岸會(ひがんゑ)・盂蘭盆會(うらぼんゑ)の如き崇祖に關聯する行事をも生ずるに至つた。


五、國民文化 

文 化 
我が國の文化は、肇國以來の大精神の顯現である。これを豐富にし發展せしめるために外來文化を攝取醇化して來た。



菅原道眞の語といはれる「和魂漢才」なる言葉が一般に行はれたのも、かやうな意味に於てである。


凡そまことの文化は國家・民族を離れた個人の抽象的理念の所産であるべきではない。我が國に於ける一切の文化は國體の具現である。文化を抽象的理念の展開として考へる時、それは常に具體的な歴史から遊離し、國境を超越する抽象的・普遍的のものとならざるを得ない。然るに我が國の文化には、常に肇國の精神が儼存してをり、それが國史と一體をなしてゐる。


かくて我が國の文化は、一貫せる精神をもつと共に、歴史の各時代に於て各々異なる特色を現してゐる。而して創造は常に囘顧と一になり、復古は常に維新の原動力となる。即ち今と古とは一となり、そこに新時代の創造が營まれる。


我が國の歴史を辿るものは、到るところにこの事實の明瞭に現れてゐるのを見るであらう。從つて我が國に於ては、復古なき創造は眞の意味に於ける創造ではない。それと同時に創造なき復古は眞の復古ではない。たゞ肇國以來一貫せる精神に基づく「むすび」こそ、我が國のまことの發展の姿でなければならぬ。


學 問 
元來我が國の學問は、歴代の天皇の御奬勵によつて發達し、今日あるを得たのである。即ち夙に儒敎・佛敎竝びにこれに隨伴した大陸の文化を攝取し、これを保護奬勵し給うたのである。


遣隋使・遣唐使にそへて多數の留學生、學問僧を遣されて廣く外國文化の粹を採り給うたことや、萬葉集の撰集に次いで、古今和歌集以下所謂二十一代集等の勅撰、或は勅版の印行等、學問を御奬勵遊ばされたことは枚擧に遑がない。


これは近く明治維新以來、西洋の學問・技術の攝取普及に關する明治天皇の御軫念にも拜することが出來る。かく學問を保護奬勵し給ふことは、一に皇祖肇國の御精神を恢弘し、國運の隆昌、民福の増進に大御心を注がせ給ふがために外ならぬ。


古來我が國の學問には、自ら肇國以來一貫せる精神が流れてゐる。聖徳太子は、皇道の羽翼として儒・佛・老の敎を攝取せられて、憲法十七條を肇作し、又三經(さんきやう)の義疏(ぎしよ)を著し給うた。


理(ことわり)即ち道理といふことを説かれるにしても、それは決して抽象的・普遍的な理法といふが如きものとしてではなく、具體的に一貫せる傳統精神の上に踐み行ふべき道として示し給うてゐる。


而してこの道によつて、當時の多岐多方面に亙る學問・文化は綜合統一せられ、爾來常に復古と創造、傳統と發展とが相即不離に展開し、進歩を遂げて來た。


國史については聖徳太子は夙に天皇記・國記等を作り給ひ、次いで天武天皇の聖旨に基づき、元明天皇は古事記三卷を撰録せしめ給ひ、元正天皇は勅して日本書紀三十卷を編纂せしめ給うた。而して日本書紀が撰進せられた翌年から、宮中に於てこれが講筵を設けさせられ、臣民をして我が國のまことの姿を明らかに覺らしめ給ふところがあつた。


勅命による修史の事業は、醍醐天皇の御代に至るまで相繼ぎ、所謂六國史の成立を見るに至つたが、後世民間にも、大日本史の如き修史事業が企てられたのである。又、江戸時代に勃興した國學は、古典の研究に發した復古の學であり、國史と共によく國體を明らかにし、國民精神の宣揚に大いに貢獻するところがあつた。


我が國のあらゆる學問は、その究極を國體に見出すと共に、皇運の扶翼を以てその任務とする。江戸時代に西洋の醫學・砲術その他が傳來した時、非常な困難を排してその研究に當つたのも、又、明治維新後、西洋の學術百般の採用に專念し、努力したのも、皆これ皇運を扶翼し奉る臣民の道に立つてのことであつた。


併しながら非常の勢を以て外來文化を輸入し、諸方面に向つて大いに發展しつゝある今日の學問に於ては、知らず識らずの間にこの中心を見失ふ惧れなしとしない。明治天皇は五箇條の御誓文の中に、

知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

と仰せられてゐるのであつて、如何なる學問に從事するものも、常にこの思をこの根本の目的に致し、よく我が國學問の本旨を逸脱せず、以て聖旨に副ひ奉ることに努めねばならぬ。


敎 育 
我が國の敎育も、亦一に國體に基づき、國體の顯現を中心とし、肇國以來の道にその淵源を有すべきことは、學問の場合と全く同樣である。我が敎育は、古く氏上が氏人を率ゐて朝廷に奉仕した時代に於ては、その氏々に於ける祖先以來の奉仕の歴史の傳承が敎育の内容をなした。


例へば高橋氏文(うぢぶみ)に於て、高橋氏の祖磐鹿六雁(いはかむつかり)ノ命が景行天皇に奉仕して忠勤を擢んでてより、代々家職を襲ぎ、朝廷の内膳職に奉仕する由來を述べて、その子孫を敎訓し、以て奉公の念を厚うせしめた如き、古來諸家の氏文は皆この類である。


後世武士の敎育についても、この傳統による家庭敎育を重んじ、家門の名を守るべきことを常に訓へたのである。吉野朝の忠臣菊池氏たる菊池武茂(たけもち)起請文に、

武茂弓箭の家に生まれて、朝家に仕ふる身たる間、天道に應じて正直の理を以て、家の名をあげ、朝恩に浴して身を立せんことは、三寶の御ゆるされをかうぶるべく候。その外私の名聞己欲のために義を忘れ恥をかへりみず、當世にへつらへる武士の心をながく離るべく候。

とあるのはその例である。


近世に於ける國民敎育は、神道家・國學者・儒者・佛敎家・心學者等の活動によるものが多かつた。神道家に於ける中臣祓(なかとみのはらへ)の尊重、國學者に於ける我が古典の研究とその普及との如きは、最も顯著なものである。


かうした人々の貢獻に關聯して、神社に於ては和歌・俳諧の神前披講・獻額等が行はれ、奉納額は算道に關するものに及んでゐる。諸藝諸道の祖として夫々の守護神を立て、八幡宮を武神として尊崇し、天滿天神を文神として仰ぎ、素戔嗚ノ尊の八雲の神詠に和歌の起原を求めるなど、種々の道の起原を神に求めてゐる。


抑々「をしへ」は「愛(を)し」の語が示すやうに慈しみ育てる意味であり、人間自然の慈愛を基として道に從つて人を育てることである。「みちびく」は子弟をして道に至らしめる意味である。我が國の敎育は、明治天皇が「敎育に關スル勅語」に訓へ給うた如く、一に我が國體に則り、肇國の御精神を奉體して、皇運を扶翼するをその精神とする。


從つて個人主義敎育學の唱へる自我の實現、人格の完成といふが如き、單なる個人の發展完成のみを目的とするものとは、全くその本質を異にする。即ち國家を離れた單なる個人的心意・性能の開發ではなく、我が國の道を體現するところの國民の育成である。


個人の創造性の涵養、個性の開發等を事とする敎育は、動もすれば個人に偏し個人の恣意に流れ、延いては自由放任の敎育に陷り、我が國敎育の本質に適はざるものとなり易い。


敎育は知識と實行とを一にするものでなければならぬ。知識のみの偏重に陷り、國民としての實踐に缺くる敎育は、我が國敎育の本旨に悖る。即ち知行合一してよく肇國の道を行ずるところに、我が國敎育の本旨の存することを知るべきである。


諸々の知識の體系は實踐によつて初めて具體的のものとなり、その處を得るのであつて、理論的知識の根柢には、常に國體に連なる深い信念とこれによる實踐とがなければならぬ。


而して國民的信念及び實踐は理論的知識によつて益々正確にせられ、發展せしめられるのであるから、我が國敎育に於ても、理論的・科學的知識は彌々尊重奬勵せられねばならぬが、同時にそれを國民的信念及び實踐と離れしめずして、以て我が國文化の眞の發達に資するところがなければならぬ。



畏くも明治天皇は、明治十二年、敎學大旨に、

敎學の要仁義忠孝ヲ明カニシテ知識才藝ヲ究メ以テ人道ヲ盡スハ我祖君國典ノ大旨上下一般ノ敎トスル所ナリ

然ルニ輓近專ラ知識才藝ノミヲ尚トヒ文明開化ノ末ニ馳セ品行ヲ破リ風俗ヲ傷フ者少カラス然ル所以ノ者ハ維新ノ始首トシテ陋習ヲ破リ知識ヲ世界ニ廣ムルノ卓見ヲ以テ一時西洋ノ所長ヲ取リ日新ノ效ヲ奏スト雖モ其流弊仁義忠孝ヲ後ニシ徒ニ洋風是競フニ於テハ將來ノ恐ルゝ所終ニ君臣父子ノ大義ヲ知ラセルニ至ランモ測ルヘカラス是我邦敎學ノ本意ニ非サル也

と仰せられてゐる。


寔に今の時世に照して深く思いを致さなければならぬところである。


藝 道 
我が國の道は、古來の諸藝にも顯著に現れてゐる。詩歌・管絃・書畫・聞香・茶の湯・生華・建築・彫刻・工藝・演劇等、皆その究極に於ては道に入り、又道より出でてゐる。道の現れは、一面に於て傳統尊重の精神となり、他面において創造發展の行となる。


從つて中世以來我が國の藝道は、先づ型に入つて修練し、至つて後に型を出るといふ修養方法を重んじた。それは個人の恣意を排し、先づ傳統に生き型に從ふことによつて、自ら道を得、而して後にこれを個性に從つて實現すべきことを敎へたものである。これ我が國藝道修業の特色である。


我が藝道に見出される一の根本的な特色は、沒我歸一の精神に基づく樣式を採ることであり、更に深く自然と合致しようとする態度のあることである。庭園の造り方を見ても、背景をなす自然との融合をはかり、布置配列せられた一木一石の上にも大自然を眺めようとし、竹の簀の子に萱の屋根の亭を設けて自然の懷に沒入しようとする。


即ち主觀的計畫に流れ人意を恣にするが如きものではない。茶道に於て侘びを尊ぶのも、それを通じて我を忘れて道に合致しようとする要求に出づる。狹い茶室に膝つき合せて一期(ご)一會(ゑ)を樂しみ、主客一味の喜びにひたり、かくして上下の者が相寄つて私なく差別なき和の境地に到るのである。


この心は、古來種々の階級や職業のものが差別の裏に平等の和を致し、大なる忘我奉公の精神を養つてきたことによく相應する。繪畫に於ても、大和繪の如きは素直な心を以て人物・自然を寫し、流麗にして趣致に富み、日本人の心を最もよく表現してゐる。


連歌・俳諧の如きは、本來一人の創作ではなく集團的な和の文學、協力の文學である。又簡素清淨なる神社建築は、よく自然と調和して限りなく神々しいものとなつてゐる。


寺院建築の如きも、よく山川草木の自然に融合して優美なる姿を示し、鎧兜や衣服の模樣に至るまで自然との合致が見られるといふが如く、廣く美術工藝等にもよくこの特色が現れてゐる。


更に我が國藝術について注意すべきは、精神と現實との綜合調和及び夫々の部門の藝術が互いに結びついてゐることである。即ち世阿彌の「花」、芭蕉の「さび」、近松門左衞門の虚實論等においては、この心と物との深い一體の關係を捉へてゐる。


繪卷物に於ては、文學・繪畫・工藝等の巧みなる綜合が見られ、能樂に於ては、詞章・謠歌(謠(うたひ))、奏樂(囃(はやし))、舞踊・演技(形(かた))、繪畫、工藝等の力強い綜合的實現がある。歌舞伎に於ても音樂と舞踊と所作との融合にその特色が現れてをり、又花道によつて舞臺と觀衆との融和にまで進んでゐる。


これを要するに、、我が國の文化は、その本質に於て肇國以來の大精神を具現せるものであつて、學問・敎育・藝道等、すべてその基づくところを一にしてゐる。將來の我が國文化も當にかゝる道の上に立つて益々創造せらるべきである。


六、政治・經濟・軍事 

祭政一致 
我が國は萬世一系の天皇御統治の下、祭祀・政治はその根本を一にする。大化の改新に於て唐制を採用するに際し、孝徳天皇が悦以て民を使ふの道を問ひ給へるに對し、蘇我石川麻呂は「先づ以て神祇を祭(いは)ひ鎭めて、然して後に應に政事を議るべし」と奏上してゐる。


我が國古の成文法は近江令より養老令に至つて完成せられたが、その職員令の初に先づ神祇官を置き、又特に神祇令を設けてある。明治天皇は「神祇を崇め祭祀を重んずるは皇國の大典政敎の基本なり」と詔せられてゐる。


即ち祭祀の精神は肇國以來政事の本となつたのであつて、宮中に於かせられては、畏くも三殿の御祭祀をいとも嚴肅に執り行はせられる。これ皇祖肇國の御精神を體し、神ながら御世しろしめし給ふ大御心より出づるものと拜察し奉るのである。實に敬神と愛民とは歴代の天皇の有難き大御心である。


欽定憲法 
明治天皇は、皇祖皇宗の御遺訓、御歴代統治の洪範を紹述し給ひ、明治二十二年二月十一日を以て皇室典範を御制定になり、大日本帝國憲法を發布遊ばされた。


外國における成文憲法は、大體に於て既存の統治權者を放逐し、又は掣肘することから生まれた。前の場合は所謂民約憲法と稱せられるけれども、その實は平等な人民が自由の立場に於て交互に契約したものではなくして、權力爭奪に於ける勝利者によつて決定せられたものに過ぎない。


後の場合は所謂君民協約憲法と稱せられるものであつて、これは傳統的の權力者たる君主が新興勢力に強要せられて相互の勢力圈を協定したものに外ならぬ。尚この外に欽定憲法の名を冠するものがあつても、それは程度の差こそあれ、實質に於ては、矢張りこの種の協約憲法以外のものではない。


然るに帝國憲法は、萬世一系の天皇が「祖宗ニ承クルノ大權」を以て大御心のまゝに制定遊ばされた欽定憲法であつて、皇室典範と共に全く「みことのり」に外ならぬ。


而してこの欽定せられた憲法の内容は、外國に於けるが如き、制定當時の權力關係を永久に固定せんがために規範化したものでもなく、或は民主主義・法治主義・立憲主義・共産主義・獨裁主義等の抽象的理論又は實踐的要求を制度化したものでもない。


又外國の制度を移植し模倣したものでもなく、皇祖皇宗の御遺訓を顯彰せられた統治の洪範に外ならぬ。これは、典憲欽定に際して皇祖皇宗の神靈に誥げ給うた御告文に、

皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ

と仰せられ、又、

皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス

と宣はせられたことによつても昭かである。


かくの如き皇祖皇宗の御遺訓を紹述せんとの大御心は、獨り典憲欽定に際してのみならず、明治の御代を一貫して渝らせられぬものであつたことは、

世はいかに 開けゆくとも いにしへの

     國のおきては たがへざらなむ

かみつよの 御代のおきてを たがへじと

       思ふぞおのが ねがひなりける

さだめたる 國のおきては いにしへの

       聖の君の みこゑなりけり

の御製によつても拜せられる。


しかもかくの如き叡慮は、明治の御代に限られたことではなく、御歴代一貫の大御心である。皇祖皇宗の御遺訓は歴代天皇によつて紹述せられるのであつて、こゝに萬世一系の皇統は自然の御一系たらせられるのみではなく、同時に御自覺の御一系たらせ給ふ有難き事實が拜せられる。


故に、欽定遊ばされた典憲は、皇祖皇宗の後裔に貽したまへる御統治の洪範の紹述として、これを奉戴し、又偏へにかくの如きものとして謹解し、循行するを要する。


而してこの連綿不斷の御統治の洪範を新たに典憲として紹述遊ばされたのは、御告文に、

顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ發達ニ隨ヒ宜ク皇祖皇宗ノ遺訓ヲ明徴ニシ典憲ヲ成立シ條章ヲ昭示シ内ハ以テ子孫ノ率由スル所ト爲シ外ハ以テ臣民翼贊ノ道ヲ廣メ永遠ニ遵行セシメ益々國家ノ丕基ヲ鞏固ニシ八洲民政ノ慶福ヲ増進スヘシ

と仰せられてあるところにうかゞはれる。


國運の隆昌、臣民の懿徳良能の發揚、慶福の増進を念じさせ給ふことは、「天壤無窮ノ宏謨」に循はせ給ひ、「祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシ」め給ふ所以である。而して憲法欽定の特殊なる御目的は、君臣の遵守規範を明徴にし、又臣民翼贊の道を廣め給ふところにあることが拜せられる。


而して世局の進運、人文の發達が、この憲法御制定の機縁となつてゐる。このことも亦「夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に隨ふ」との御祖訓に隨はせ給うたのである。


かくの如き立憲の御精神を拜して外國における憲法制定の由來に思いを及ぼす時、よく彼我の憲法の本質的差異を知ることが出來る。


我が憲法に祖述せられてある皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壤無窮の神勅である。この神勅は、萬世一系の天皇の大御心であり、八百萬ノ神の念願であると共に、一切の國民の願である。從つて知ると知らずとに拘らず、現實に存在し規律する命法である。


それは獨り將來に向つての規範たるのみならず、肇國以來の一大事實である。憲法第一條に「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのは、これを昭示し給うたものであり、第二條は皇位繼承の資格竝びに順位を昭かにし給ひ、第四條前半は元首・統治權等、明治維新以來採擇せられた新しき概念を以て、第一條を更に紹述し給うたものである。


天皇は統治權の主體であらせられるのであつて、かの統治權の主體は國家であり、天皇はその機關に過ぎないといふ説の如きは、西洋國家學説の無批判的の踏襲といふ以外には何等の根據はない。


天皇は、外國の所謂元首・君主・主權者・統治權者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神(あきつみかみ)として肇國以來の大義に隨つて、この國をしろしめし給ふのであつて、第三條に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。


外國に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かゝる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。


天皇御親政 
尚、帝國憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政體法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又米國流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三權分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。


これは、肇國以來萬世一系の天皇の大御心に於ては、一貫せる御統治の洪範でありながら、中世以降絶えて久しく政體法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。


帝國憲法の政體法の一切は、この御親政の原則の擴充紹述に外ならぬ。例へば臣民權理義務の規定の如きも、西洋諸國に於ける自由權の制度が、主權者に對して人民の天賦の權利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の惠撫慈養の御精神と、國民に隔てなき翼贊の機會を均しうせしめ給はんとの大御心より出づるのである。


政府・裁判所・議會の鼎立の如きも、外國における三權分立の如くに、統治者の權力を掣肘せんがために、その統治權者より司法權と立法權とを奪ひ、行政權のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が國に於ては、分立は統治權の分立ではなくして、親政輔翼機關の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼贊を彌々確實ならしめんとするものである。


議會の如きも、所謂民主國に於ては、名義上の主權者たる人民の代表機關であり、又君民共治の所謂君主國に於ては、君主の專横を抑制し、君民共治たるための人民の代表機關である。我が帝國議會は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、國民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て、翼贊せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。


我が國の法 
我が國の法は、すべてこの典憲を基礎として成立する。個々の法典法規としては、直接御親裁によつて定まるものもあれば、天皇の御委任によつて制定せられるものもある。併しいづれも天皇の御稜威に淵源せざるものはないのである。


その内容についても、これを具體化する分野及びその程度には、種々の品位階次の相違はあるが、結局に於ては、御祖訓紹述のみことのりたる典憲の具體化ならぬはない。從つて萬法は天皇の御稜威に歸する。それ故に我が國の法は、すべて我が國體の表現である。


かくて我が國の法は、御稜威の下に、臣民各自が皇運扶翼のために、まことを盡くし恪循する道を示されたものである。されば臣民が國憲を重んじ、國法に遵ふは、國民が忠良なる臣民として生きる所以である。


經 濟 
經濟は、物資に關する國家生活の内容をなすものであつて、物資は、たゞに國民の生活を保つがために必要なるのみならず、皇威を發揚するがための不可缺なる條件をなすものである。從つて國の經濟力の培養は、皇國發展の一つの重要なる基礎である。


されば、畏くも肇國の當初に於て、皇祖が親しく生業をさづけ給ひ、經濟即ち産業が國の大業に屬することを御示し遊ばされた。神武天皇は「苟も民に利(くぼさ)あらば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ」と宣ひ、更に崇神天皇は「農は天下の大本なり。民の恃みて以て生くる所なり。」と仰せられ、歴代の天皇は常に億兆臣民の生業を御軫念遊ばされた。


然るに久しきに亙る封建時代に於て、職業は漸次固定し、經濟は著しく硬化したために、産業の發達には見るべきものが少なかつた。江戸時代の末に於ては、これを打開せんがため幾多の經濟學及び經濟生活の指導者が現れた。就中、二宮尊徳の如きはその著しいものである。尊徳に於ては一圓融合の理、報徳の道を説き、勤勞・分度・推讓を主張し、これを天地の大法に合致する大道とし、皇國本源の道を示現するものとして説いた。


我が國が明治維新によつて世界列強の間に伍するや、從來の農業生産のみを以てしては、經濟力の發展を圖ることの困難なることが痛感せられた。こゝに於て明治以來屡々聖諭を下し給ひ、近代西洋の生産技術を採用し、又勤儉の重んずべきを訓誡遊ばされ、又實業敎育を整へ、産業を奬勵し、以て國富の増進、臣民の慶福のために大御心を注がせ給うた。


臣民も亦よく天皇の大御心を體し、官民協力、勤儉よく産を治めて、今日見るが如き國力の充實を見るに至つたのであり、その急速なる發達は、世界の驚異とするところである。


我が國民經濟は、皇國無窮の發展のための大御心に基づく大業であり、民の慶福の倚るところのものであつて、西洋經濟學の説くが如き個人の物質的欲望を充足するための活動の聯關總和ではない。それは、國民を擧げて「むすび」の道に參じ、各人その分に從ひ、各々そのつとめを盡くすところのものである。


我が國に早くより發達した農事は、地物そのものの生成を人の力によつて育成することであり、人と土とが和合して生産を營むことである。これ我が國産業の根本精神である。近代に勃興した商工業と雖も、固よりこれと同一の精神によつて營まるべきはいふまでもない。


我が國近代の經濟活動の根柢には、西洋思想の著しい浸潤があるにも拘らず、常にかゝる肇國以來の産業精神が流れてゐたと見るべきである。固より我が國民の悉くが、その經濟活動に於て常にかゝる精神を意識してゐたといふのではなく、また我が國民が、生産活動のあらゆる場合に、營利の觀念を離脱してゐたといふのでもない。


併し我が國の産業に從事する者の多くが、單に自己の物質的欲望の充足に導かれるといふよりは、むしろ何よりも先づ各々の職分を守り、つとめを盡くすといふ精神によつて和合の中にその業務にいそしんで來たことは、見逃し難い事實である。さればこそ、最近に見るが如き我が産業界の世界的躍進を齎し得たのである。


「むすび」の精神を本とし、公を先にし私を後にし、公を守りつとめを盡くし、和を以て旨とする心こそ、我が國固有の産業精神であつて、それは産業界に強き力を生ぜしめ、創意を奬め、協力を齎し、著しくその能率を高め、産業全體の隆昌を來し、やがて國富を増進する所以となる。


將來我が國民の經濟活動に於ては、この特有の産業精神が十分に自覺せられ、これに基づいて彌々その發展が圖られねばならぬ。かくて、經濟は道徳と一致し、利欲の産業に非ずして、道に基づく産業となり、よく國體の精華を經濟に於て發揚し得ることとなるであらう。


軍 事 
我が國體の顯現は、軍事についても全く同樣である。


古來我が國に於ては、神の御魂を和魂(にぎみたま)・荒魂(あらみたま)に分つてゐる。この兩面の働きの相協ふところ、萬物は各々そのところに安んずると共に、彌々生成發展する。而して荒魂(あらみたま)は、和魂(にぎみたま)と離れずして一體の働きをなすものである。


この働によつて天皇の御稜威にまつろはぬものを「ことむけやはす」ところに皇軍の使命があり、所謂神武とも稱すべき尊き武の道がある。明治天皇の詔には、「祖宗以來尚武ノ國體」と仰せられてある。天皇は明治六年徴兵令を布かせられ、國民皆兵の實を舉げさせ給ひ、同十五年一月四日には、陸海軍軍人に勅諭を賜はつて、

我國の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある

と仰せ出され、又、

朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰ぎてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠みに應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし

と諭し給うた。


この勅諭は、畏くも天子に咫尺し奉るが如く尊く拜誦せられる。まことに皇軍の使命は、御稜威をかしこみ、大御心のまにまによく皇國を保全し、國威を發揚するにある。


我が皇軍は、この精神によつて日清・日露の戰を經て、世界大戰に參加し、大いに國威を中外に輝かし、世界列強の中に立つてよく東洋の平和を維持し、又廣く人類の福祉を維持増進するの責任ある地位に立つに至つた。


こゝに於て、我等國民は、「文武互ニ其ノ職分ニ恪循シ衆庶各其ノ業務ニ淬勵シ」と仰せられた聖旨を奉體し、協心戮力・至誠奉公、以て天壤無窮の皇運を扶翼し奉り、臣民たるの本分を竭くさねばならぬ。

 
☆ 結 語 ☆ 

我等は、以上我が國體の本義とその國史に顯現する姿とを考察して來た。今や我等皇國臣民は、現下の諸問題に對して如何なる覺悟と態度とをもつべきであらうか。惟ふに、先づ努むべきは、國體の本義に基づいて諸問題の起因をなす外來文化を醇化し、新日本文化を創造するの事業である。


我が國に輸入せられた各種の外來思想は、支那・印度・歐米の民族性や歴史性に由來する點に於て、それらの國々に於ては當然のものであつたにしても、特殊な國體をもつ我が國に於ては、それが我が國情に適するか否かが先づ嚴正に批判檢討せられねばならぬ。


即ちこの自覺とそれに伴ふ醇化とによつて、始めて我が國として特色ある新文化の創造が期し得られる。


西洋思想の特質 
抑々西洋思想は、その源をギリシヤ思想に發してゐる。ギリシヤ思想は、主治的精神を基調とするものであり、合理的・客觀的・觀想的なることを特徴とする。そこには、都市を中心として文化が創造せられ、人類史上稀にみる哲學・藝術等を遺したのであるが、末期に至つてはその思想及び生活に於て、漸次に個人主義的傾向を生じた。


而してローマは、このギリシヤ思想を法律・政治その他の實際的方面に繼承し發展せしめると同時に、超國家的なキリスト敎を採用した。歐米諸國の近世思想は、一面にはギリシヤ思想を復活し、中世期の宗敎的壓迫と封建的專制とに反抗し、個人の解放、その自由の獲得を主張し、天國を地上に將來せんとする意圖に發足したものであり、他面には、中世期の超國家的な普遍性と眞理性とを尊重する思想を繼承し、而もこれを地上に實證に求めんとするところから出發した。


これがため自然科學を發達せしめると共に、敎育・學問・政治・經濟等の各方面に於て、個人主義・自由主義・合理主義を主流として、そこに世界史的に特色ある近代文化の著しい發展を齎した。


抑々人間は現實的の存在であると共に永遠なるものに連なる歴史的存在である。又、我であると同時に同胞たる存在である。即ち國民精神により歴史に基づいてその存在が規定される。これが人間存在の根本性格である。この具體的な國民としての存在を失はず、そのまゝ個人として存在するところに深い意義が見出される。


然るに、個人主義的な人間解釋は、個人たる一面のみを抽象して、その國民性と歴史性とを無視する。從つて全體性・具體性を失ひ、人間存立の眞實を逸脱し、その理論は現實より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。こゝに個人主義・自由主義乃至その發展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。


今や西洋諸國に於ては、この誤謬を自覺し、而してこれを超克するために種々の思想や運動が起つた。併しながら、これら畢竟個人の單なる集合を以て團體或は階級とするか、乃至は抽象的の國家を觀念するに終るのであつて、かくの如きは誤謬に代ふるに誤謬を以てするに止まり、決して眞實の打開解決ではない。


東洋思想の特質 
我が國に輸入せられた支那思想は、主として儒敎と老莊思想とであつた。儒敎は實踐的な道として優れた内容をもち、頗る價値のある敎である。而して孝を以て敎の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。


この孝は實行的な特色をもつてゐるが、我が國の如く忠孝一本の國家的道徳として完成せられてゐない。家族的道徳を以て國家的道徳の基礎とし、忠臣は孝子の門より出づるともいつてゐるが、支那には易姓革命・禪讓放伐が行はれてゐるから、その忠孝は歴史的・具體的な永遠の國家の道徳とはなり得ない。


老莊は、人爲を捨てて自然に帰り、無爲を以て化する境涯を理想とし、結局その道は文化を否定する抽象的のものとなり、具體的な歴史的基礎の上に立たずして個人主義に陷つた。その末流は所謂竹林の七賢の如く、世間を離れて孤獨を守らうとする傾向を示し、清談獨善の徒となつた。


要するに儒敎も老莊思想も、歴史的に發展する具體的國家の基礎をもたざる點に於て、個人主義的傾向に陷るものといへる。


併しながら、それらが我が國に攝取せられるに及んでは、個人主義的・革命的要素は脱落し、殊に儒敎は我が國體に醇化せられて日本儒敎の建設となり、我が國民道徳の發達に寄與することが大であつた。


印度における佛敎は、行的・直觀的な方面もあるが、觀想的・非現實的な民族性から創造せられたものであつて、冥想的・非歴史的・超國家的なものである。


然るに我が國に攝取せられるに及んでは、國民精神に醇化せられ、現實的・具體的な性格を得て、國本培養に貢獻するところが多かったのである。


新日本文化の創造 
これを要するに、西洋の學問や思想の長所が分析的・知的であるに對して、東洋の學問・思想は、直觀的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が國の精神・思想竝びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。


我が國は、從來支那思想・印度思想等を輸入し、よくこれを攝取醇化して皇道の羽翼とし、國體に基づく獨自の文化を建設し得たのである。明治維新以來、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が國運の隆昌に貢獻するところがあつたが、その個人主義的性格は、我が國民生活の各方面に亙つて種々の弊害を釀し、思想の動搖を生ずるに至つた。


併しながら、今やこの西洋思想を我が國體に基づいて醇化し、以て宏大なる新日本文化を建設し、これを契機として國家的大發展をなすべき時に際會してゐる。


西洋文化の攝取醇化に當つては、先づ西洋の文物・思想の本質を究明することを必要とする。これなくしては、國體の明徴は現實を離れた抽象的のものとなるであらう。西洋近代文化の顯著なる特色は、實證性を基とする自然科學及びその結果たる物質文化の華かな發達にある。


更に精神科學の方面に於ても、その精密性と論理的組織性とが見られ、特色ある文化を形成してゐる。我が國は益々これらの諸學を輸入して、文化の向上、國家の發展を期せねばならぬ。併しながらこれらの學的體系・方法及び技術は、西洋に於ける民族・歴史・風土の特性より來る西洋獨自の人生觀・世界觀によつて裏附けられてゐる。


それ故に、我が國にこれを輸入するに際しては、十分この點に留意し、深くその本質を徹見し、透徹した見識の下によくその長所を採用し短所を捨てなければならぬ。


諸般の刷新 
明治以來の我が國の傾向を見るに、或は傳統精神を棄てて全く西洋思想に沒入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の學術思想に關して十分な批判を加へず、そのまゝこれを踏襲して二元的な思想に陷り、而もこれを意識せざるものがある。


又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般のものとは相當な思想的懸隔を來たしてゐる。かくて、かゝる情態から種々の困難な問題が發生した。嘗て流行した共産主義運動、或は最近に於ける天皇機關説の問題の如きが、往々にして一部の學者・知識階級の問題であつた如きは、よくこの間の消息を物語つてゐる。


今や共産主義は衰頽し、機關説が打破せられたやうに見えても、それはまだ決して根本的に解決せられてはゐない。各方面に於ける西洋思想の本質の究明とその國體による醇化とが、今一段の進展を見ざる限り、眞の成果を舉げる事は困難であらう。


惟ふに西洋の思想・學問について、一般に極端なるもの、例へば共産主義・無政府主義の如きは、何人も容易に我が國體と相容れぬものであることに氣づくのであるが、極端ならざるもの、例へば民主主義・自由主義等については、果してそれが我が國體と合致するや否やについては多くの注意を拂はない。


抑々如何にして近代西洋思想が民主主義・社會主義・共産主義・無政府主義等を生んだかを考察するに、先に述べた如く、そこにはすべての思想の基礎となつてゐる歴史的背景があり、然もその根柢には個人主義的人生觀があることを知るのである。


西洋近代化の根本性格は、個人を以て絶對獨立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充實に存し、個人が一切價値の創造者・決定者であるとするところにある。從つて個人の主觀的思考を重んじ、個人の腦裡に描くところの觀念によつてのみ國家を考へ、諸般の制度を企畫し、理論を構成せんとする。


かくして作られた西洋の國家學説・政治思想は、多くは、國家を以て、個人を生み、個人を超えた主體的な存在とせず、個人の利益保護、幸福増進の手段と考へ、自由・平等・獨立の個人を中心とする生活原理の表現となつた。從つて、恣な自由解放のみを求め、奉仕といふ道徳的自由を忘れた謬れる自由主義や民主主義が發生した。


而してこの個人主義とこれに伴ふ抽象的思想の發展するところ、必然に具體的・歴史的な國家生活は抽象的論理の蔭に見失はれ、いづれの國家も國民も一樣に國家一般乃至人間一般として考へられ、具體的な各國家及びその特性よりも、寧ろ世界一體の國際社會、世界全體に通ずる普遍的理論の如きものが重んぜられ、遂には國際法が國法よりも高次の規範であり、高き價値をもち、國法は寧ろこれに從屬するものとするが如き誤つた考すら發生するに至るのである。


個人の自由なる營利活動の結果に對して、國家の繁榮を期待するところに、西洋に於ける近代自由主義經濟の濫觴がある。


西洋に發達した近代の産業組織が我が國に輸入せられた場合も、國利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌剌たる自由活動は著しく國富の増進に寄與し得たのであるけれども、その後、個人主義・自由主義思想の普及と共に、漸く經濟運營に於て利己主義が公然正當化せられるが如き傾向を馴致するに至つた。


この傾向は貧富の懸隔の問題を發生せしめ、遂に階級的對立鬪爭の思想を生ぜしめる原因となつたが、更に共産主義の侵入するや、經濟を以て政治・道徳その他百般の文化の根本と見ると共に、階級鬪爭を通じてのみ理想的社會を實現し得ると考ふるが如き妄想を生ぜしめた。


利己主義や階級鬪爭が我が國體に反することは説くまでもない。皇運扶翼の精神の下に、國民各々が進んで生業に競ひ勵み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、國利と民福とは一如となつて、健全なる國民經濟が進展し得るのである。


敎育についても亦同樣である。明治維新以後、我が國は進歩した歐米諸國の敎育を參酌して、敎育制度・敎授内容等の整備に努め、又自然科學はもとより精神諸科學の方面に於ても大いに西洋の學術を輸入し、以て我が國學問の進歩と國民敎育の普及とを圖つて來た。


五箇條の御誓文を奉體して舊來の陋習を破り、智識を世界に求めた進取の精神は、この方面にも亦長足の進歩を促し、その成果は極めて大なるものがあつた。


併しそれと同時に個人主義思想の浸潤によつて、學問も敎育も動もすれば普遍的眞理といふが如き、抽象的なもののみを目標として、理智のみの世界、歴史と具體的生活とを離れた世界に趨らんとし、智育も徳育も知らず識らず抽象化せられた人間の自由、個人の完成を目的とする傾向を生ずるに至つた。


それと同時に又それらの學問・敎育が、分化し專門化して漸く綜合統一を缺き、具體性を失ふに至つた。この傾向を是正するには、我が國敎育の淵源たる國體の眞義を明らかにし、個人主義思想と抽象的思考との清算に努力するの外はない。


かくの如く、敎育・學問・政治・經濟等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の歸するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の價値を自覺せしめ、個人能力の發揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現實が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の對立を惹起せしめ、國家生活・社會生活の中に幾多の問題と動搖とを釀成せしめる。


今や西洋に於ても個人主義を是正するための幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に對する階級的個人主義たる社會主義・共産主義もこれであり、又國家主義・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。


併し我が國に於て眞に個人主義の齎した缺陷を是正し、その行詰まりを打開するには、西洋の社會主義乃至抽象的全體主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企畫を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。

我等の使命 
今や我が國民の使命は、國體を基として西洋文化を攝取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢獻するにある。我が國は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく獨自な創造と發展とをなし遂げた。これ正に我が國體の深遠宏大の致すところであつて、これを承け繼ぐ國民の歴史的使命はまことに重大である。


現下國體明徴の聲は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては國體の明徴は現實と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の攝取醇化と國體の明徴とは相離るべからざる關係にある。


世界文化に對する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢獻することは、たゞ日本人たるの道を彌々發揮することによつてのみなされる。


國民は、國家の大本としての不易な國體と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇國の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成發展せしめ、以て彌々天壤無窮の皇道を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等國民の使命である。


《 を は り》






























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